学芸員を退職後、これからの生き方を模索しています。シマを愛する←奄美⇔沖縄→の目線を通して、気ままに書いていま~す♪

by yukari-gou
 
それぞれの自覚
私たち奄美文化財サポーターDEIDEIDEIは、2月11日土曜日、笠利町にある県立大島北高等学校で、高橋一郎さんによる民俗公開座談会を行ないました。。





その日は天気にも恵まれ、参加者はまず講師と事務局で用意した地図を片手に、赤木名界隈の散策から始めました。f0001865_16213977.jpg

例えば、下の家の敷地は、嘉永年間(1848~1854)に書かれた赤木名の地図によると、横目屋敷があった場所です。今でいう巡査または監視役にあたります。当時、サトウキビの監視役をつとめていた人の記録も残っています。
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どれぐらいの参加者が集まるか心配でしたが、講話が始まる頃には、ほとんど地元赤木名の方で60名ほどの参加者であふれていました。遠く加計呂麻島からも見えている方もいました。
商店街の会員による呼びかけの効果が大きかったようです。
ここで内容をかいつまんで少し紹介したいと思います。

■奄美や沖縄諸島をうたった古い歌『おもろさうし』に出てくる奄美の島々は、琉球の船乗り集団との関連があると考えられる。なかには赤木名のノロを謡ったものもある。これらが謡われた時期は定かではないが、赤木名が出てくる部分は前後の内容から15世紀末から16世紀前半ごろか。

■琉球は1466年の尚徳王の奄美征討以来、2度も攻め入っている。琉球王府が編んだ歴史書がそれについて語っているのは優れた琉球王がいたと説くため。たとえば1537年に湯湾大親が攻めいれられ自害したという例は、1458年に琉球国内でも起こっている。さらに李朝の歴史書には、日本甲兵を討つため琉球は軍を派遣しており、大島の家譜などの記述からも最低4度は攻め入ったことが明らかである。

■大島北域は、琉球王府が統括しきれないほどの海上流通のセンター的な地位を、徳川幕府よりも早い15世紀の段階ですでに確立していた。琉球が統括できないのは倭寇との関わりがあったため。倭寇は中国の海_政策を犯しての出会貿易、つまり密貿易なので、自由貿易を求めて東シナ海を自在に往来していた。

■島のお年寄りの話から14~15世紀を思わせる内容が聞き取れる。赤木名をはじめ笠利には、ダイナミックな歴史の厚みがあり、山、川など空間にその古層の姿をはらんでいる。

■便利な方向だけにすり替えるのではなく、助け合いが成り立つサトや人のあり方として、今も続いていることをどういう風に工夫するのか。そのために、土地のことをきちんと見える形にすると、浮かび上がってくる世界がある。市街地にならないといけない話ではない。そのためには、まち並みを保存するということに加えて、復元するという作業も視野に入れる段階に来ている。
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これまで、研究者が説いてきた奄美の歴史よりも、実はもっと豊かなのだという高橋さんの見方は、まるで歴史学者や考古学者がコンクリートで実証を塗り固めていくトンネルの先の真っ暗な土の中を、鋭いセンスの刃をもって、真っ先に掘り進む掘削機のように感じました。

一見荒っぽく見えるかも知れませんが、その力強さは、学者によって読み古された史料の丹念な読み直しと聞き取り調査の裏づけをもって歴史を再構築した世界を彷彿させるものでした。
そういう役目を負う人も必要なのだと、高橋さんの仕事をみてつくづく思いました。

当時研究者は誰も目を向けなかった奄美における平家伝説の検証という分野から奄美へ入ってこられた高橋さんの強みが、奄美の海をダイナミックにかけめぐった中世の世界に光明を見いだす礎となっているのです。

歴史をひも解いていくことは、何も研究者だけがやることではなく、そこで暮らす一人ひとりが身近な人から聞き取りをしたり、モノにふれることで、土地の様相が記録として伝承していきます。そうすることによって、その土地や人々の知恵が自ずと見えてきます。それが今を生きる私たちに求められることでもあるのです。

これから奄美の歴史認識は大きく変わっていくでしょう。毎年、島のあちこちで重要な発見があるため、次々と歴史は日々刻一刻と変わっており、一言でこうだと言い切れない現状があります。奄美の歴史が解けないと日本の歴史も解けないのです。それだけに日本中の研究者が奄美の成果に期待を寄せています。それが、島独特の歴史教科書として印刷物に落とし込めない理由なのかも知れません。

f0001865_1784822.jpgまちづくりをコンサルタント会社などの外部の人に任せたりするのではなく、そこに住んでいる一人ひとりの自覚によって沸き起こってくる手ごたえを、懇親会を終えたころ、また一段と強く感じました。

一連の事業の企画準備から運営まで、全て会員が分担して行なっています。
講師への依頼をはじめ、事前打ち合わせ、講師が予め用意した手打ちのレジュメ原稿をパソコンで作成し、直前まで修正が続きました。

当日の会場設営の看板づくりや受付手配、講師が使うスライド機器扱い、タイムキーパー、湯茶接待などなど。
そんな私も写真と議事録をとろうと、講師の超早口にやっとこさついていく始末。アヤシイ…。
昼食には、森さん、加茂川さん、元田さんが持ってきたおにぎりなどもご馳走になりました。
会員の大島北高校の仲原先生が考古学クラブの学生を連れて来られ、ビデオ撮影もお手伝いしてもらいました。皆さん、感謝、感謝です。

会の事務局は宇宿貝塚公園内にあります。
そこで勤務し、事務局を兼ねている元田さんが書類準備などの実務的なことを行なっていますが、会員が自主的に自らの技術や経験を結集して初めて、これだけの会がスムーズに運ばれるのです。

それが実行できるのは、会が自由に動ける場を提供し、理解を示して下さった、笠利町教育委員会をはじめ、組織側として学芸員でもある歴史民俗資料館の中山館長と会としての代表である岡崎弥生さんらの強いリーダーシップとヒューマンパワーによるものだと思います。

高橋さんのお話は、笠利町から調査依頼を受けた聞き取り調査の成果を、地元に住む皆さんへお返しするという姿勢に立ったものです。
私たち自身が学ぶ場を作りたいという気持ちから、この会は発足しました。
場が提供され、動きだしさえすれば、後は、利用する私たちが自主的な責任のもとで、自覚を持って自由に活動ができるのです。
ちなみに、当の中山館長はなんと学術研究の授業を受けるため、その日は九州へのぼっていたのです!! 任し、任せられる信頼関係の賜物です。

あと、講話の冒頭で小学生が数名退室してしまいましたが、会員の中学生のお子さんは倭寇の話の部分になると、目をキラキラさせてノートを書き取っていたそうです。判りやすい言葉で話すってとても難しいです。私も、中学生に負けないくらい創造力を膨らませて、自分なりの奄美の世界をいつか表現できればなぁと、さらに思いが拡がりました。

最後に印象に残った高橋さんの言葉です。
あと10年経ったときに、ここの人間ではない私に聞き取り調査をするようなことだけは止めてほしい。皆さん自身がお話を聞くことによって、私よりも深く、この土地の話をすくいとることができるはずです。

といった感じで、自称でぃでぃでぃの広報班の私はつい力がこもり、長くなってしまいました。
ここまで読んだ方、疲れたでしょう? 最後まで読んでいただいて有難うございます
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by yukari-gou | 2006-02-13 14:17 | まちづくり
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